ただ、現在の体制に至るまでに、世界経済は幾重に渡り失敗を重ねてきました。
2回にわたる世界大戦は、経済体制の失敗が招いたといっても過言ではありません。
現代の経済体制の礎となったものが、「GATT」と呼ばれるものです。
目次
Contents
GATTとは?
GATTとは「General Agreement on Tariffs and Trade」 (関税および貿易に関する一般協定)の略語で、自由な国際貿易の促進を目指して制定された協定ならびに約定国の団体です。
世界恐慌の際の貿易制限の反省を踏まえて、各国が自由に貿易ができる体制がGATTによって形成されました。
ちなみに、GATTは戦後の国際経済体制である「ブレトンウッズ体制」を構成する協定の1つです。
国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)とセットになって、ブレトンウッズ体制の維持に貢献しました。
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GATTを構成する3つの骨組み
自由貿易の促進
従来、貿易では様々な手段を用いて「制限」がなされていました。
たとえば、政府が輸入禁止の措置を出したり、輸入量を制限することなどが挙げられます。
関税を設けることも、貿易の制限の1つですが、このような制限は、時として政治的な対立を引き起こす可能性があります。
経済的な理由がなくとも、何かケチをつければ輸入量を制限することができてしまうためです。
世界恐慌が深刻化した理由も、この貿易制限が不当に行われたからと言って良いでしょう。
したがって、GATTでは貿易の制限を極力なくし、制限を行ったとしてもちゃんと目に見える形でわかるよう、制度整備を始めます。
GATT加盟国に対して、貿易制限を行う際は「関税」のみを利用するよう促しました。
関税による貿易制限は、制限とは言っても輸入量、輸出量がゼロになるわけではありません。
比較的緩やかな貿易制限であるため、深刻な保護貿易に陥る国はなくなると考えた為です。
加えて、関税の場合、第三者が見ても、どの品目に対して制限がなされているかすぐに分かるため、対処がしやすい面もあります。
日本の場合、米などの農作物に高い関税をかけています。
貿易における差別の撤廃
GATTでは、貿易の際に不当な差別を設けることを禁止しました。
差別を設けない貿易を行うために、GATTは「最恵国待遇」と「内国民待遇」と呼ばれる原則を設けました。
最恵国待遇とは、貿易や通商に関する条約を二国間で取り決めた際、条約締結国以外の国に対しても、同様の待遇を与えるというものです。
たとえば、A国とB国が通商の取り決めを行ったとすると、A国、B国ともに他の第三者の国に対しても、要請があれば同様の待遇を提供しなければなりません。
最恵国待遇によって、各国が貿易、通商、関税の差別を受けることが無くなり、自由貿易が促進されると考えられました。
内国民待遇とは、自国の国民と企業に与えている権利を外国の国民、企業にも同様に与えるというものです。
最恵国待遇が主に貿易に関する待遇に関するものであるのに対し、内国民待遇は、より広範な範囲で権利を認めるものになります。
内国民待遇を保証することで、他国との間で経済交流がより盛んになり、互いに利益を得ることが可能になります。
第二次世界大戦前は、外国から来た労働者に対して、不当に安い賃金を当てはめることが珍しくありませんでした。
ただ、優秀な学者や実業家が、経済活動に制約を設けない国に集中するようになり、戦後は内国民待遇を設ける国が増えていきました。
但し、日本をはじめ、外国人の労働者の権利を一部制限している国も、未だに多く見られます。
外国人労働者サイドの倫理的な問題も指摘されていますが、まずは外国人労働者をフェアなルールの下で受け入れる体制をつくっていかなければなりませんね。
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GATTの歴史について
第二次世界大戦が勃発した原因の1つは、世界恐慌時における各国の保護貿易主義(自分の都合の良いように、貿易を制限する)であると考え、二度と世界大戦を起こさせないよう、自由な貿易を行える環境が必須であるとされました。
実際、世界恐慌時、アメリカはニューディール政策、イギリス、フランスはブロック経済政策を実施して、国内の経済のみを良くすることに集中してしまい、ドイツ、イタリアをはじめとするファシズム国家の暴走を招くことになったのです。
第二次世界大戦後の1947年、GATTが発足が決定されます。
翌1948年、GATTが発行され、自由貿易の体制がスタートします。
GATTは、多国間の貿易交渉を軸として展開されていきました。
GATTの多国間交渉の中でも、後半の3回は世界の貿易体制を整備する上で特に重要な回になりました。
各交渉の名称と内容は以下の通りです。
1964年~1967年:ケネディ・ラウンド
加盟国間で、全ての工業品の関税を約35%引き下げることが決定されます。
これは、高度経済成長を迎えていた日本にとって、輸出拡大の大きな追い風となりました。
1973年~1979年:東京ラウンド
東京ラウンドでは、輸出入する製品の技術面での障害、貿易の手続きの簡素化など、関税以外で貿易の障壁となる部分を改善させることが決定されました。
この頃から、関税の低減のみでは自由貿易を促進することが困難である面が露呈して、あらゆる障害を取り除くという方向へ動いていきます。
1986年~1994年:ウルグアイ・ラウンド
ウルグアイ・ラウンドでは、世界経済における第3次産業(サービス業)の成長に伴って、新たな貿易ルールを制定することに力が注がれました。
主な決定事項として、以下の内容が挙げられます。
- 農産物の輸出入における関税化の徹底。
- サービスの貿易に関しても、最恵国待遇と内国民待遇を義務付ける。
- 特許や知的所有権などについて、今後継続して議論を行う。
- WTO(Word Trade Organization)の設立に合意する。
農産物に関しては、関税以外による輸出入の制限を原則無くし、関税による制限のみが認められるようになりました。
加えて、サービス産業や特許、知的所有権など、新たな産業や権利についても議論が進められることになりました。
ただ、ウルグアイ・ラウンドでもっとも衝撃的だったのが、「WTOの設立の合意」です。
GATTはあくまでも、加盟国の間での約束事のような立ち位置であったため、加盟国に対する強制力はありませんでした。
しかし、経済のグローバル化が進むにつれて、ある程度、加盟国にルールを義務付けていく必要に駆られてきます。
そこで、GATTからWTOという組織に移行することによって、WTO加盟国にWTOでの決定事項を必ず守るという義務を負わせることにしたのです。
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まとめ
GATTは、第二次世界大戦前の保護貿易主義の反省のもとで生れた、自由貿易を促進する協約です。
IMF、IBRDともに戦後のブレトンウッズ体制を形成して、世界経済の発展に貢献しました。
GATTによる多国間交渉の結果、自由貿易の体制は徐々に整備されていきますが、決定事項に強制力がなかったため、不徹底で終わることもしばしばありました。
このような事態を受けて、1995年にWTOが設立され、GATTの権限がWTOに移行されます。
GATTの後を担ったWTOは、現在も活動を続けております。
WTOが世界経済の自由化を促進することで、GATTが存在した意義が証明されると言っても良いでしょう。
以上、【GATTとは?】ブレトンウッズ体制の屋台骨、関税貿易一般協定について解説。…の話題でした。