「100億円」という資産を築くにはどれくらいの収入と年月が必要になるのでしょうか?
考えるだけでも途方に暮れそうな金額です。
今回はまさにその100億円という資産を築いた「本多静六」の資産構築の考え方(著書:私の財産告白を参考)について触れていきます。
今回は主に「貯蓄」にフォーカスした内容となっております。
目次
Contents
本多静六とはどのような人物なのか
さて、その100億円という資産を築いた本多静六とはどのような人物なのでしょうか?
まずは著書からの引用です。
1866(慶応2)年、埼玉県生まれ。苦学の末、1884(明治17)年に東京山林学校に入学。一度は落第するももう勉強して首席で卒業。その後ドイツに私費留学してミュンヘン大学で国家経済学学士号を得る。1892(明治25)年、東京農科大学(現在の東大農学部)の助教授となり、「月収4分の1天引き貯金」と1日1頁の原稿執筆を開始。
研究生活のかたわら植林・造園・産業振興など多方面で活躍、日比谷公園の設計や明治神宮の造林など大きな業績を残すだけでなく、独自の蓄財投資法と生活哲学を実践して莫大な財産を築く。1927(昭和2)年の停年退官を期に、全財産を匿名で寄付。
その後も「人生即努力、努力即幸福」のモットーのもお、戦中戦後を通じて働学併進の簡素生活を続け、370冊余りの著作を残した。1952(昭和27)年1月、85歳で逝去。
(引用:本多静六「著書:私の財産告白」)
時代的に、江戸時代末、つまり幕末に生まれ戦後の1952年を生きた方ですね。
東京山林学校は現在でいう東大農学部であり、首席で卒業と非常に優秀な方だったことが想像できます。
明治のはじめ、駒場の地に農学校が設立され、日本の近代農学の発展の礎となった。明治11年1月24日、農学校開校式の祝辞の中で、大久保利通は、農をもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに今日この日からはじまるのだ、と述べた。
東京大学農学部の歴史は、駒場の農学校、さらにその前身である内藤新宿の農事修学場にさかのぼることができる。農学校はその後、正式に駒場農学校と呼ばれるようになり、明治19年、東京山林学校と合併して東京農林学校となった。
(引用:東大農学部の歴史「農学部の黎明」)
日比谷公園の設計や明治神宮の造林などの実績を残すなど、資産家としてだけではなく、多方面で活躍されていたことが伺い知れます。
助教授時代は家族は九人を数えるまでになり、お金が必要な中、満25歳の頃の月給の取り初めは月割りにして60円、恩給基金などの控除があって最終的には58円しか残らず、「これではいつまでたっても貧乏から脱けられない」と著書に記載があります。
月給58円は当時の物価でいくらほどなのでしょうか?
35円程度が平均給与だったとのことなので、日本の平均年収が400万円程度として、1.6倍程度の650〜700万円程度だったと予測できますね。
たしかにこの収入では独身であれば余裕がありますが、家族九人を支えるのは厳しいでしょう。
決して最初から資産を持っていて、以前のコンテンツで紹介したように労働収入より効率の良い資本収入で財産を増やしていった訳ではないことがわかります。
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本多式4分の1貯蓄法
「本多式4分の1貯蓄法」。本多静六氏の資産構築の出発点ですね。
「本多式」としていますが、実際は江戸時代でもかの有名な「松平楽翁公」「二宮尊徳翁」(二宮金次郎ですね)、そのほか幾多の先輩が奨励してきた貯金方でしたが、それを偶然実行したのみとしています。
「本多式4分の1貯蓄法」の貯金の方法としては、あらゆる通常収入は手取りの4分の1を貯金。
臨時収入は全部貯金して、通常収入増加の基に繰り込むというものです。
貯金 = 通常収入×1/4 + 臨時収入×10/10
臨時収入とは、主に賞与となりますが、本多静六氏が行っていたアルバイト全額、旅費の残額などです。
非常にシンプルではありますが、本多式4分の1貯蓄法で増やした貯金により投資で得る配当や利子などは通常収入と考えて、4分の1を更に貯蓄再投資に回し、4分の3は生活費に回すということです。
本多静六氏よりも家族の人数が基本的には少ない私たちにもできそうな手法ですよね。
25歳の時に本多式4分の1貯蓄法を開始し、月末は家族一同ごま塩で過ごしていたことなどを告白しています。
莫大な資産を構築するには、覚悟が必要であることがよくわかります。
精神面においても、貧乏による節約をするのではなく、自発的に勤倹貯蓄につとめて、貧乏を圧倒するのでなければならぬと考えたそうです。
財産を作ることの根幹は、やはり勤倹貯蓄だ。これなしには、どんなに小さくとも、財産と名のつくほどのものはこしらえられない。さて、その貯金がある程度の額に達したら、事業に投資するのがよい。貯金を貯金のままにしておいては知れたものである。
(引用:本多静六「私の財産告白」181頁)
この考えはまさに「投資元本」をまずは増やそうということですね。
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本多式4分の1貯蓄法はどうすれば達成できるのか?
本多式4分の1貯蓄法は静六氏本人も、その家族も相当な苦労があったはずですが、実際にどのように乗り越えたのでしょうか?
我々も実践に移すことができればうまく貯金ができそうですが、苦難も多そうです。
自身に低収入であるという錯覚を起こす
とにかく自分の収入は1/4を引いた金額しかないと言い聞かせるというもので、精神論的ですが、効果があったようです。
はじめからないものと思えばたしかに楽な面はあるかもしれません。家族を苦労させている面もあり、耐え忍ぶ他ない状況だったことが想像できます。
貧乏も糧と信じる
人間の一生をみるに、だれでも早いか遅いか、一度は必ず貧乏を体験すべきものである。つまり物によって心を苦しまされるのである。これは私どもの長年の経験から生まれた結論である。子供の時、若い頃に贅沢に育った人は必ず貧乏する。その反対に、早く貧乏を経験した人は必ずあとがよくなる。つまり人間は一生のうちに早かれ遅かれ、一度は貧乏生活を通り越さねばならぬのである。
だから、どうせ一度は通る貧乏なら、できるだけ1日でも早くこれを通り越すようにしたい。
(引用:本多静六「私の財産告白」192頁)
本多静六氏からはこの他にも、以下の発言もあります。
「貧乏に苦労し、貧乏し抜いてこそ、人生の意義や事物の価値認識をいっそう深めることができるのである。貧乏したことのある人間でなければ、本当の人生の値打ちはわからないし、また堅実に、生活の向上をめざしていく努力と幸福は生じてこないのである」
貧乏に対して非常にポジティブな精神を持ち、自分に言い聞かせ、やりきったのではないでしょうか。
雪だるま式に資産が増える段階までいけば楽になることを理解していた
明るい未来が予見できると、人間は頑張れます。
辛い辛い本多式4分の1貯蓄法ですが、貯蓄から投資による配当収入・利子を通常収入としていましたよね。
つまり、その通常収入に対して、4分の3は生活費に回すことが出来ます。
最初の数年を耐えれば生活は好転し始めることは目に見えていたのです。
当時は定期預金がなんと5%程度の金利回りであり、1/4を貯蓄していくとすると以下のペースで財産は増えていきます。
■ 前提:手取り600万円+ボーナス100万円=合計700万円
- 初年度貯蓄額=300万円(600×1/4 + 150)
- 次年度利回り=15万円(300万円×5% = 15万円、1/4である3.75万円を再貯蓄)
- 2年目貯蓄額=603.75万円(300万円×2年+3.75=603.75万円)
- 次年度利回り=30.1875万円(603.75万円×5%、1/4である7.55万円を再貯蓄)
- 3年目貯蓄額=911.3万円(300万円×3年+11.3万円)
- 3年目利回り=45.565万円(911.3万円×5%、1/4である11.39万円を再貯蓄)
3年経過時点で、上記のように資産は膨れ上がり、徐々に加速していきます。
どんどん楽になっていくのは事実ですね。
とにかく節約、確実な利回りで資産を増やしていくことにコミットしたということでしょう。
このような貯蓄、資産運用に加えて、自身の研究の結果を著作収入を得るために執筆するという副業収入も得る努力をしていたようなので、財産を築くために毎日を過ごしていたことがよくわかります。
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まとめ
今回は「本多式4分の1貯蓄法」について特化して紹介をしてきましたが、本多静六は100億円を築いた資産家であり、まだまだ紹介すべき部分がたくさんあります。
本多式4分の1貯蓄法は定期預金が現在と比べ高金利だったことから、機能しているようにも思えます。
やはり徹底した貯蓄が功を制したことに違いありません。
我々も、給料の1/4を貯蓄に回す習慣などを作って実践してみるのもありなのかもしれませんね。
以上、【有名投資家】本多静六の著書「私の財産告白」から学ぶ資産構築!本多式4分の1貯蓄法とは?…の話題でした。
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