現代では、世界各国がそれぞれ経済的な関係を深めています。
現代では、貿易を行ったり、為替取引を行うことが当たり前になっています。
しかし、実は「過去の経済体制の変遷」が現在の体制に強い影響を与えてきました。
その中で、最も強い影響を与えたと言っても過言ではないものが、「ブレトンウッズ体制」と呼ばれるものです。
目次
ブレトンウッズ体制とは?
ブレトンウッズ体制とは、第二次世界大戦中の1944年から戦後の1971年まで続いた世界通貨の体制です。
ブレトンウッズ体制では、世界各国の通貨の為替レートが、アメリカの通貨である「米ドル」を軸にして決定されました。
米ドルは、金との交換が保証され、実質的にドルを媒介にした「金本位制」がブレトンウッズ体制の骨組みです。
ブレトンウッズ体制によって、各国の為替レートは一定となり、「固定為替相場制」の形式をとることになります。
金1オンスあたり35ドルの交換レートがとられ、日本円は「1ドル=360円」のレートに固定されます。
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体制がつくられた経緯
ブレトンウッズ体制が敷かれた目的は、「世界経済不安によって、二度と世界大戦を引き起こさない」こと。
また、「第二次世界大戦後の世界経済を安定させる」ことです。
1929年の世界恐慌によって、イギリスやフランスをはじめとした第一次世界大戦の戦勝国が「ブロック経済」を敷いたことが、第二次世界大戦を引き起こした1つの原因とされています。
他国の製品が入ってこない為、価格競争に晒されることなく、経済を回すことが可能になります。
ただ、ブロック経済の政策を行えるのは、植民地を保有している国に限られ、第一次世界大戦で植民地をすべて失ったドイツなどは、ブロック経済を形成できませんでした。
そのため、ドイツやイタリアは「他国の資源を奪う」という行動に出ざるを得なくなり、侵攻を始めていくのです。
ちなみに、日本の場合も同様で、新たな資源獲得を目指して、中国、東南アジアへ侵攻していくことになります。
このような経緯から、第二次世界大戦はブロック経済圏をつくったために深刻化したとの反省がなされ、同じことが繰り返されないよう、ブレトンウッズ体制が整備されたのです。
ブレトンウッズ体制の始まりは、1944年に締結されたブレトンウッズ協定にて決められた「国際通貨基金(IMF)」と「国際復興開発銀行(IBRD)」の設立です。
この2つの機関が中心となって、「金とドルの兌換(だかん)」を維持していきます。
IMF、IBRDともに本部はアメリカの首都ワシントンD.C.に設置されました。
世界経済の中心地が、ヨーロッパからアメリカに移った瞬間です。
1947年には、「関税と貿易に関する一般協定(GATT)」が成立して、世界中で自由な貿易を行っていく体制が整備されました。
1930年代の不況後,世界経済のブロック化が進み各国が保護主義的貿易政策を設けたことが,第二次世界大戦の一因となったという反省から,1947年にガット(関税及び貿易に関する一般協定)が作成され,ガット体制が1948年に発足しました(日本は1955年に加入)。貿易における無差別原則(最恵国待遇,内国民待遇)等の基本的ルールを規定したガットは,多角的貿易体制の基礎を築き,貿易の自由化の促進を通じて日本経済を含む世界経済の成長に貢献してきました。
ガットは国際機関ではなく,暫定的な組織として運営されてきました。しかし,1986年に開始されたウルグアイ・ラウンド交渉において,貿易ルールの大幅な拡充が行われるとともに,これらを運営するため,より強固な基盤をもつ国際機関を設立する必要性が強く認識されるようになり,1994年のウルグアイ・ラウンド交渉の妥結の際にWTOの設立が合意されました。
(引用:外務省「WTOとは」)
ちなみに、ブレトンウッズ体制が敷かれた時代は冷戦真っ只中でした。
そのため、ソ連を始めとした社会主義陣営はブレトンウッズ体制には参加しませんでした。
ソ連に関しては、ブレトンウッズ協定自体には調印したのですが、最終的に批准を行わず、アメリカと対立することになります。
ソ連は、ブレトンウッズ体制に対抗するべく、経済相互援助会議(COMECON)を形成します。
COMECONには、ソ連、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ポーランド、アルバニア、ハンガリー、ルーマニアが参加して、COMECON内での相互経済援助、経済交流を進めていきます。
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ブレトンウッズ体制の功績
ブレトンウッズ体制は、アメリカのドルが金との交換を保証されていることで成り立った体制です。
アメリカ経済の圧倒的なパワーの下で世界経済が牽引されていく形になりました。
ドルが金と交換できる限り、世界の為替レートは安定するため、貿易が活発に行われるようになりました。
生産した製品をどんどん海外へ輸出して、利益をあげていきます。
固定相場制では、為替の変動リスクが無いため、あらかじめ生産計画を立てやすいメリットもありました。
貿易が活発になった結果、世界経済は密接な繋がりをもってくるようになります。
ブレトンウッズ体制が目指した、「経済協力による世界大戦の抑止」をある程度、形にすることができたのです。
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ブレトンウッズ体制は限界を迎えた?
それは、「ドルを金と交換できなくなったら、固定相場制を維持できない」というものです。
そもそも、なぜドルが基軸通貨になり得たかというと、アメリカがドルとの交換に応じられるほどの金を保有していたためです。
ただ、世界中で貿易の取引額が増大していき、さらに西側陣営各国でインフレが進みました。
もはやアメリカ1国の金保有量、生産量では世界のドルと金を交換できなくなってしまったのです。
この結果、アメリカ大統領のニクソンは1971年、ドルと金の交換停止を発表します。
この結果、ドルに対する信頼が急落して、もはや固定相場制を維持する根拠がなくなってしまったのです。
各国は、自国の通貨とドルの固定相場を解除して、「変動為替相場制」へと移行してきます。
変動為替相場制とは、為替レートを市場の需要、供給によって決定する制度です。
現代の外国為替相場は、この変動為替相場制を指します。
ブレトンウッズ体制による「自由貿易」が結果として、ブレトンウッズ体制そのものを崩壊させる要因となったのです。
変動為替相場制へ移行してからは、各国の中央銀行が独自の金融政策を行って為替レートの維持に介入できるようになりました。
世界経済は新たな局面を迎えることになります。
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ブレトンウッズ体制から学べること
ブレトンウッズ体制が示したことは、「1つの通貨を軸にして為替レートを固定することは、もはや困難である」ということです。
技術進歩、テクノジーの開発により、もはや世界の貿易取引量は国が単体で制御できない状態にまでなったということです。
第二次世界大戦以前であれば、国営企業がまだ多かった時代ということもあり、生産体制や貿易は国が主導になってコントロールすることができました。
それが、世界大戦を引き起こす原因にもなったのですが、ブレトンウッズ体制により、世界で自由貿易が行われるようになりました。
経済が「国の管理下」という枠組みを超えるようになったのです。
これは、現代の経済にも言えることで、独裁政権や完全な社会主義政権でない限り、企業の生産は国が管理することは不可能になっています。
経済成長が世界大戦を抑止するという考え自体は、今のところ正しいと言えます。
ある意味、これが世界大戦を防いでいく唯一の方法であったのかもしれません。
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まとめ
ブレトンウッズ体制は、第二次世界大戦のような悲惨な世界戦争を二度と起こさせないようにするという確固たる意志のもとでスタートしました。
アメリカの圧倒的な経済力により、ブレトンウッズ体制は維持されていきますが、「自由貿易を浸透させる」という目的自体が、徐々にブレトンウッズ体制を崩壊へ導いていきました。
このような現代の経済がどのように成り立ってきたのかの歴史を学ぶことは、投資、資産運用を実行していく上で必須の知識です。
経済の仕組み・歴史・今後の見通し、またお金の本質を学ぶべく「お金の学校」という選択肢が近年では注目されています。
「お金の学校」という取り組みは非常に興味深く、義務教育では学べない学びの場が提供されている現代に生きる我々は恵まれているのかもしれません。
自身のマネーリテラシーを高めて、資産形成を成功させていきましょう。
以上、【ブレトンウッズ体制とは?】戦後の世界経済の屋台骨!その仕組みと功績・ニクソンショックまでの流れを解説。…の話題でした。