第二次世界大戦後、戦後経済は転換期を迎えます。
ただ、このアメリカの時代も1971年に終わりを迎え、そのきっかけになったのが「ニクソンショック」です。
過去には様々な世界恐慌がありましたが、今回は、このニクソンショックについて、情報をまとめていきます。
■ 過去の世界経済恐慌:
目次
Contents
ニクソンショックとは
ニクソンショックとは、1971年にアメリカ大統領のニクソン氏が発表した「金とドルの交換停止」に関する声明です。
当時、ドルが金(きん)と交換できなくなるという予想をしている人は多くなく、この発表に衝撃を受けたということで「ニクソンショック」と呼ばれています。
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ニクソン大統領とはどんな人物か
政治家になる前
ニクソン氏は、1913年にカリフォルニア州のオレンジ・カウンティで生れました。
地元のウィッテア大学を卒業した後、アメリカの名門大学であるデューク大学のロースクールにて法律を学び、卒業後は弁護士として働きます。
第二次世界大戦が始まると、ニクソン氏は海軍に入隊して、前線の兵士への補給を担当する士官となります。
戦争終結後は、再び弁護士の職に復帰。
地元の有識者たちの支援もあり、1946年にカリフォルニア州の下院議員選へ共和党候補として立候補し、無事に当選を果たし、政治の世界へ足を踏み入れることとなりました。
若手時代
ニクソン氏は4年間、下院議員として政治活動を行った後、1950年に上院議員へ立候補し、民主党代表者との熾烈な選挙戦を繰り広げ、当選を果たします。
当時、ニクソン氏はリベラル派(保守派とは対極にあり、革新を求めていく派閥)を徹底攻撃して、リベラル派を全員「共産主義者」と呼んで非難しておりました。
時は冷戦の時代ですので、この姿勢は共和党内、並びに共和党支持者から絶大な支持を呼ぶことになりました。
1953年に、39歳という若さで、時の米大統領アイゼンハワーの副大統領に指名されます。
ニクソン氏は、アイゼンハワーの下で様々な仕事に取り組みます。
特に、アフリカやアジアなどの国へ多く訪れ、外遊の経験を積んでいきます。
ニクソン氏が大統領になった際の積極的な外交は、この当時の外遊経験がもとになっていると言われています。
初めての大統領選挙出馬
1960年、ニクソン氏は共和党代表として、アメリカ大統領選挙に立候補します。
民主党の候補はケネディで、両者の間で接戦が続きます。
最終的に、僅差でケネディが大統領として当選し、ニクソン氏は落選します。
ただ、ニクソン氏とケネディ氏は所属政党は違えども、互いに理解のある政治家であったため、選挙後に互いの泥を塗り合うようなことはありませんでした。
ニクソン氏は落選後、政治活動からいったん離れて、弁護士業に専念します。
その後、カリフォルニア州知事選挙に立候補して、政治家として再スタートを切ろうとしますが、ここでも落選してしまいます。
マスコミからは、「負け犬ニクソン」とまで言われてしまい、いよいよニクソン氏の政治家生命は終わったとされました。
念願の大統領へ
ただ、ニクソン氏はカリフォルニア州知事選挙で落選しても、政治家として成功することを諦めませんでした。
1968年のアメリカ大統領選挙に立候補して、民主党の大統領候補ハンフリーと激戦を繰り広げます。
わずかな差でニクソン氏が大統領に当選し、念願のアメリカ大統領となったのです。
大統領になってからは、「ニクソン外交」と呼ばれる積極的な外遊を展開して、各国との関係を深めていきます。
冷戦で対立していたソ連とも接近して、「デタント」と呼ばれる日ソ関係の接近を演出します。
また、前任のジョンソン大統領が泥沼化させたベトナム戦争を完全終結に導きます。
ベトナムからのアメリカ軍撤退を実現して、ベトナム戦争に終止符を打ったのです。
日本への沖縄返還を決めたのもニクソン氏であり、外交に関しては歴代のアメリカ大統領の中でもトップクラスの実績をあげていきました。
再選目前で政治生命を絶つ
1972年に、アメリカ大統領選挙が行われ、ニクソン氏は再選を目指して立候補します。
圧倒的な支持率で、民主党候補に圧勝すると予想されていて、実際に各州の選挙で次々と勝利していきます。
しかし、1972年にニクソン大統領の政治生命を終わらせる事件が起こります。
ニクソン陣営に通じている者が、ワシントンD.C.にある民主党本部のオフィスへ不法侵入、ならびに盗聴を行ったことが明らかになったのです。
これを「ウォーターゲート事件」と呼びます。
当初、ニクソン氏はこの事件への関与を否定しました。
しかし、続々と証拠がでてきたため、最終的にニクソン氏が事件の責任を取る形で大統領を辞任します。
歴代大統領の中で、在任中に大統領を辞任したのは、ニクソン氏ただ1人です。
こうして、ニクソン氏は思わぬ形で政治の世界から離れていきました。
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ニクソンショックに至る経緯
第二次世界大戦直後はアメリカの1人勝ち!
第二次世界大戦が終結し、新たに冷戦の時代に突入していきます。
アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営に分かれました。
アメリカは、資本主義陣営の中で、生産体制が疲弊しているヨーロッパ諸国、日本に多くの製品を輸出して、利益をあげていきます。
ヨーロッパ諸国、日本はアメリカから輸入せざるをえず、加えてドルが基軸通貨になっていることから、アメリカの経済的優位は強くなっていきます。
ヨーロッパ・日本が復調し、立場が逆転!
イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国、ならびに日本が経済的に復興してきたため、アメリカの輸出は徐々に減少していきます。
むしろ、上記の国からアメリカへの輸出が増えていき、アメリカは貿易赤字に陥っていきます。
当時は、ドルと他の通貨の為替レートが固定されていたため、各国は輸出による利益の目処を立てやすく、そのレートに合わせて生産体制を整備していったのです。
他国は、輸出によって手に入れたドルを金に交換していきます。
アメリカは、金とドルの交換を保証しているため、好感に応じざるを得ない状況になってゆくのです。
そしてニクソンショックへ
この結果、アメリカの金保有量はどんどん減っていき、もはや海外からの金交換に応じるのが困難な状態になりました。
そして、1971年、ニクソン大統領は金とドルの交換停止に踏み切るのです。
ドルと金のつながりは無くなったため、各国はドルと自国の通貨の為替レートを固定化するメリットがなくなりました。
日本をはじめとして、他国が固定相場制から「変動為替相場制」へ移行していき、ドルとの関係を解消していったのです。
ニクソンショックによって、アメリカの絶対的な経済力に陰りが見え始めたことが露呈されました。
冷戦やベトナム戦争による戦費の拡大も影響したとされています。
この後、世界の貿易は通貨安、通貨高に神経をすり減らすことが当然のこととなり、今でも外国為替市場は貿易に影響を与えています。
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まとめ
ニクソンショックは、アメリカの大統領ニクソンによって発表された「金とドルの交換停止」がきっかけですが、そこに至るまでの経緯は、アメリカ経済の影響力低下を如実示しています。
ニクソン大統領自身が、外交に力を入れていたこともあり、このニクソンショックも世界経済を新たな局面へ向かわせるには必須のものであったとニクソン氏自身が考えたのかもしれません。
現代の変動為替相場制への移行のきっかけとなっていますので、歴史上の発表が現代にもたらした影響は多大なものであると痛感しますね。
「過去を学べば、今が見えてくる」ということを実感できる出来事であったと言えます。
以上、【ニクソンショックとは?】戦後経済の大転換!ニクソン大統領の生い立ちからドルショック発生の原因をわかりやすく解説。…でした!