■ 過去の世界経済恐慌:
このコンテンツでは、「日本」の高度経済成長を終わらせたとさせる「オイルショック」について解説していきます。
目次
Contents
オイルショックとは何か?
オイルショックとは、原油生産国が「原油価格の値上げ」。
また、「輸出の制限」を行うことで生じる経済的な影響を指します。
オイルショックが生じると、各国内では「原油がなくなるのではないのか」という懐疑的な雰囲気が漂います。
つまり、原油を使った製品の価格が高騰します。
本来は、すぐに原油がなくなるわけではありません。
製品がなくなることはないのですが、将来的な見通しの悪さが国内経済に影響を与えるのです。
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オイルショックに至るまでの流れ
それでは、オイルショックに至った経緯を確認していきましょう。
イスラエルの建国
第二次世界大戦中、ヒトラーを党首とした、ドイツのファシスト政党「ナチス」。
またポーランドやソ連によって多くのユダヤ人が迫害されていた歴史があります。
そんなユダヤ人たちは、迫害を逃れるためにアメリカへ移民していきます。
第二次世界大戦終了後。
ユダヤ人たちは自分たちの国をつくらなければ、また迫害が繰り返されると考えます。
そして、1948年、現在のイスラエルが位置するパレスチナ地域に、ユダヤ人国家である「イスラエル」が建国されます。
もちろん、ユダヤ人たちが移住する前は、別の民族(アラブ人)が住んでいました。
しかし、彼らを追い出す形で、ユダヤ人国家が成立したのです。
第一次中東戦争の勃発
イスラエルの建国に対して、アメリカが支持を表明しました。
というのも、アメリカ国内のユダヤ人勢力が無視できない程に大きくなっていました。
アメリカ政府もユダヤ人たちの意向を無視できなくなった為です。
イスラエル周辺のアラブ人国家(サウジアラビア、エジプトなど)もイスラエルの建国に断固反対の姿勢を見せます。
そして、イスラエルの独立を阻止するべく、アラブ人国家がイスラエルに戦争を仕掛けます。
最初に起こった中東戦争は、「第一次中東戦争」と呼ばれています。
この中東戦争。
最初はイスラエル側が軍事物資の不足で不利とされました。
しかし、アメリカの支援もあり、徐々にイスラエルが形成を逆転していきます。
アラブ国家側は、それぞれ王政国家、部族連合国家でした。
そのため、国同士の結束力が弱く、イスラエルの巻き返しに対抗できませんでした。
そして、イスラエルの全面的な勝利によって第一次中東戦争は幕を下ろします。
エジプトの改革
第一次中東戦争の結果を受けて、アラブ国家側でも国内体制を改革するべきという気運が高まってきます。
そんな中、エジプトでは自由将校団と呼ばれる若手の軍人たちによって、国王が追放され、王政が終わりを告げます。
このとき、改革のリーダーとして活躍したのは自由将校団のメンバーであったナセル氏です。
ナセル氏は大統領となり、改革を推進していきます。
ナセル氏は、エジプト国内を流れる「スエズ運河」と呼ばれる河川の国有化を突如宣言しました。
スエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ河川で、ヨーロッパ諸国にとって、アジア地域へ続く重要な航路でした。
ナセル氏は、このスエズ運河をエジプトが管理できないのは不合理であるとして、国有化を宣言したのです。
もちろん、イギリスとしてはエジプトのスエズ運河国有化を認めることは到底できません。
そして、イギリスがフランス、イスラエルと合同でエジプトに攻撃を仕掛けます。
圧倒的な兵力差により、エジプトは敗戦を続けます。
イスラエル軍は、エジプトのシナイ半島を占領するに至ります。
ただ、世界の世論は「イギリスとフランス、イスラエルの行動は身勝手極まりないものである」として、強く非難します。
逆に、エジプトのナセル氏を勇気のある者として評価して、イギリス、フランス、イスラエルは国際的に孤立していきます。
そして、イギリス勢力は、エジプトからの撤退を表明したのです。
この結果、戦争ではイギリス側が勝利しました。
しかし、政治的にはエジプトが勝利して、ナセル氏は「英雄」としてアラブ国家の中で存在感を高めていきました。
イスラエルの反撃
世界の世論は、親アラブ寄りになる中、イスラエルは第二次中東戦争で味わった屈辱に、世論が高揚していました。
イギリスとフランスは、表立ってイスラエルを支援することが難しくなったため、イスラエルは単独でエジプトを攻撃することを決心します。
そして、イスラエルはエジプトに先制攻撃を仕掛け、たったの6日間でエジプトに勝利します。
イスラエルは、占領地を更に広げ、領土を拡大しました。
エジプトのナセル氏は、イスラエルの攻撃に為す術なく敗れたため、その権威を失墜させました。
ただ、イスラエルの独断的な攻撃、占領に対して世界の世論は厳しく非難し、国連も安保理決議によりイスラエルを非難しました。
そしてオイルショックへ
エジプトでは、ナセル氏に代わり、新しくサダトが大統領に就任します。
サダト大統領は、イスラエルへの奇襲攻撃を指示して、これを成功させます。
最初は、エジプト側が奇襲攻撃を成功させたこともあり、選挙区を有利に進めますが、徐々にイスラエルが反撃を開始します。
このままでは、またイスラエルに敗北することを悟ったアラブ諸国側。
アラブ諸国側は、国際世論を味方につける為に、「石油」を利用します。
サウジアラビアなど原油産油国は、「イスラエルに味方する国」に対する原油の輸出を禁止して、かつ原油の価格を引き上げます。
この結果、中東地域の原油に依存していたアメリカやイギリスは経済的に大打撃を受けます。
これが「オイルショック」と呼ばれるものです。
日本は、「イスラエルを支援する国」のリストに含まれていた為、急遽、「イスラエルの撤退」を求める声明を出します。
その後、アラブ国家へ外交官を派遣し、話し合いの末、なんとか「リスト」から外されることになりました。
ただ、オイルショックによる原油価格の高騰は日本経済にも大きな影響を与え、高度経済成長を終わらせるきっかけとなりました。
この石油戦略によって、アラブ諸国側はイスラエルを国際的に孤立させることに成功します。
そして、アラブ側に有利な休戦協定をイスラエルと結ぶことに成功します。
第四次中東戦争後、エジプトは国内の経済発展のためにアメリカとの関係を強めていきます。
ただ、アメリカとの関係を深めるためには、まず「アメリカと友好関係にあるイスラエルとの関係を修復する必要がある」とサダト氏は考えました。
そして、アメリカ大統領のカーターが仲介の下、エジプトとイスラエルは1978年に「キャンプデービット合意」と呼ばれる和平プロセスに合意。
1979年に「エジプト=イスラエル和平条約」に調印します。
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〜コラム〜パナソニック(旧:松下電気器)創業者松下幸之助の功績
パナソニック創業者、そして日本の大成功した実業家として有名な松下幸之助氏。
すでに経営の第一線を退いた後にオイルショックが発生しました。
石油危機で混沌とした日本の未来を憂い、94歳で天寿を全うするまでの数年間に、私財70億円を投じました。
「松下政経塾」の設立、国際技術団の発足、日本人初の米ハーバードビジネススクール(HBS:Harvard Business School)への100億ドル寄贈など。
精力的に社会奉仕活動に邁進しました。
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まとめ
オイルショックは、「原油の輸出制限」という面が強調されがちですが、それに至るまでに、中東地域の複雑な対立がありました。
中東戦争は計4回勃発して、アラブ諸国が最後の手段として「原油戦略」に踏み切ったのです。
歴史の流れを知ると、ある出来事が起こった際の因果を正確に把握することができます。
現代の政治・経済問題も、その原因を深く調べるクセをつけておくと、新たな発見がありますよ。
以上、【オイルショック(石油危機)とは?】日本の高度経済成長を終わらせた?トイレットペーパー騒動で有名な事象をわかりやすく解説。…の話題でした!