第二次世界大戦の原因となったアメリカの経済恐慌。
それが起こった日は1929年10月24日で、曜日は「木曜日」でした。
木曜日の英語「Thursday」をとって、その日は「ブラックサーズデー」と呼ばれています。
今回は、このブラックサーズデーが起こった原因、そして当時の株価推移について、徹底解説していきます。
■ 過去の世界経済恐慌:
目次
Contents
ブラックサーズデーが起こる前の世界経済
まずはじめに、ブラックサーズデーが起こる前に世界経済について、確認していきましょう。
産業革命から第一次世界大戦まで
世界経済は、18世紀から19世紀にかけて起こったイギリスの産業革命をきっかけに、急速に工業化を進めていきました。
イギリスの後を追う形で、ドイツ、アメリカなどの欧米諸国も工業化していきます。
日本も、1868年の明治維新をきっかけに、工業化を進めていきました。
そんな中、1914年に第一次世界大戦が勃発します。
第一次世界大戦は、それまでの戦争と異なり、「非戦闘員」を巻き込んだ総力戦となりました。
第一次世界大戦の舞台となったヨーロッパでは、戦争で勝利を得るために次々と新しい兵器が開発されていきます。
例えば、戦車や機関銃など、高度な技術を要する兵器が挙げられます。
これらの兵器をさらに改良するために、皮肉にも工業技術が発展していきました。
戦争で経済が皮肉にも潤うという話は「終戦で物価が上がる?戦後にインフレが起こりやすい理由を解説!」でもしておるぞ、参考までじゃ。
第一次世界大戦は、イギリス、フランス、ロシアを中心とした三国協商グループと、ドイツ、オスマン帝国(今のトルコ)を中心とした三国同盟グループに分かれて繰り広げられました。
日本は、イギリスと日英同盟を結んでいたため、三国協商グループにつきました。
戦況は、拮抗した状態が続くのですが、途中からアメリカが三国交渉側について参戦し、最終的に協商グループの勝利で終結します。
第一次世界大戦直後の世界経済
第一次世界大戦によって、ヨーロッパ諸国は深刻な経済ダメージを受けました。
復興に多額の費用がかかったため、物資が不足する事態になったのです。
加えて、イギリス、フランスは戦費を賄うために、アメリカから借金をしていました。
その借金を返済しなければならなかったので、敗戦国のドイツに多額の賠償金を請求しました。
ドイツ側は、その賠償金を受け入れるほかなく、賠償金の支払いのために貨幣を大量に発行しました。
そのため、ドイツ国内では急速にインフレが進行します。
ドイツ国内のインフレは、「ハイパーインフレーション」と呼ばれており、パン1個の値段が1兆マルクにも及びました。
このように、ヨーロッパ国内で経済不安が生じたため、各地で社会主義運動が巻き起こりました。
この事態を深刻に受け止めたアメリカは、ヨーロッパ経済を復興させるために、支援に乗り出します。
具体的には、ドイツに対して資金の融資を行い、ドイツがスムーズに賠償金を払える状態をつくりました。
イギリス、フランスはドイツから得た賠償金を使って、アメリカに借金を返済するという一連の流れが出来上がり、ようやくヨーロッパの経済は安定を取り戻していきます。
また、ヨーロッパ国内の物資不足から、アメリカはヨーロッパ諸国へ製品の輸出を積極的に行い、経済を更に発展させていきます。
このように、アメリカが主導権を握りながら、世界経済の立て直しを図る動きをしていきます。
ただ、このアメリカ経済の好調が後のブラックサーズデーの要因となってきます。
(目次に戻る)
ブラックサーズデー勃発へ
ブラックサーズデー前~有頂天になっていたウォール街の投資家~
ヨーロッパ経済の復興が進んでいき、徐々にアメリカからの輸入に頼らなくても経済が回るようになり、アメリカの企業は、今までと同じように利益を出せなくなってきます。
また、時を同じくしてアメリカでは株式投資が広まります。
1920年代半ばから上昇を続けていたNYダウ工業株平均は、1928年から29年にかけて急速に上昇しました。
ただ、この急上昇は、投資とは言っても、その実態は多額の投機資金が短期的に流入する状態でした。
実際の経済成長と比較して、株価が大きく上昇するようになります。
投資家はもちろんのこと、一般国民の間でも株式投資が広がっていきました。
また海外の投資家も、戦後で疲弊した欧州へ投資するよりも、経済成長を続けている好調なアメリカの株に投資するようになり、空前の投資ブームになりました。
市場に流れ込んでくるマネーは、レバレッジをかけた信用取引なども含まれており、投資家はレバレッジをかけた取引で得られるリターンを得たため、完全に浮かれていました。
景気の実態を示す工業指数は1929年夏以降下落の傾向にあるにも関わらず、このように相場は過熱を続け、実体の伴わない、バブルが形成されました。
ブラックサーズデー当日 1929年10月28日、Xデーが訪れた
ただし、こうした株高にも終わりが訪れます。
あまり振るわない景気指標をうけて、経済実体の伴わない株価上昇に違和感を覚える投資家が少しずつ増えていきました。
そして、投資資金が回収できない事態を恐れた投資家は、保有している株の売りに走ります。
1929年10月24日(木)いわゆるブラックサーズデー(暗黒の木曜日)と呼ばれる、株価の急落が起こります。
この日の急落を皮切りに、翌週の月曜日(ブラックマンデー)・火曜日(ブラックチューズデー)に連続して暴落を記録し、2日間だけで、ダウ平均株価が23%もの大幅に下落してしまいました。
市場から資金が一気に流出した結果、アメリカの株式市場全体で空前の株価が大暴落が起こり、株を保有している投資家や企業、国民はパニックに陥ります。
株価暴落によって、大損をした企業は、自社を守るために労働者のリストラに走り、市中には失業者があふれました。
当時のアメリカの失業率は25%(現在は3.5%)、銀行が国民からの預金引き出しにより倒産、融資先も倒産と、いわゆる「世界恐慌」と呼ばれる事態が生み出されてしまいました。
これが、いわゆる「世界恐慌(ブラックサーズデー)」と呼ばれるものです。
ブラックサーズデーの影響は、アメリカのみならず世界各国に広がっていきます。
日本も、世界恐慌後に「昭和恐慌」に陥ります。
深刻な経済不況が世界中で勃発していったのです。
補足:ブラックサーズデーで大儲けした人も
ブラックサーズデー発生の直前まで、ニューヨーク・ウォール街は浮かれ舞い上がっていました。
この時期に、後のジョン・F・ケネディ大統領の父親であるジョセフ・ケネディは、名門ケネディ家を築き上げるほどの財を作り上げる事に成功しました。
その時期、ジョセフ・ケネディは町の靴磨きの少年から、「どの株が上がりますか?」と聞かれました。
こんな小さな少年ですら、株に興味を持つほど、異常な楽観ムードでした。
ケネディ氏は、「こんな少年ですら株式に興味を持っている。これは異常だ。もうすぐ、アメリカの好景気は終わりを迎えるだろう」と感じ、保有している株を全て売却しました。
ケネディ氏はブラックサーズデーの暴落をうまく切り抜け、財を築く事になったのです。
(目次に戻る)
ブラックサーズデー後の世界
世界各国で推進された経済政策
ブラックサーズデーによる経済恐慌を脱出するために、世界各国はそれぞれ経済政策を進めていきます。
アメリカの経済政策
アメリカでは、銀行法「グラス・スティーガル法」が制定され、預金者の保護や銀行業と証券業の分離を図り、行き過ぎた銀行の活動の規制を図りました。
また、1930年代に入り、ニューディール政策を実施します。
これまでの自由放任主義の経済に対する反省から、政府が市場に出回る通貨量や物の生産量、農作物の生産量などを管理し、同時に大規模な公共投資を進めました。
テネシー川という地域でのダム建設をはじめとして、大量に出てしまった失業者の雇用の受け皿を作りました。
同時に、スムート=ホーレー法が制定され、自国産業を守るために海外からの輸入品に対して高率の関税がかけられるようになり、保護主義的な経済政策が進められるようになった。
イギリス・フランスへの影響
イギリス、フランスは自国の植民地とのみ、貿易を行うブロック経済を形成しました。
自国と植民地とを、高い関税を使うことで同盟化し、ブロック圏外からの安い輸入物は高い関税をかける事ではねのけ、自国と植民地との間だけ、経済交流が盛んになるようにしたのです。
イギリスでは「ボンド・ブロック」、フランスでは「フラン・ブロック」という経済圏が形成されました。
このように、経済的に強い国々は自国産業を守るために、他国からの輸入品に対して高い関税をかけて海外品を排除するような保護主義的な経済活動が行われました。
保護主義の経済政策が進んだ結果、世界全体の自由貿易が衰退し、世界の不況に拍車をかけていきました。
日本、ドイツ、イタリアへの影響
これら2つの政策は、広大な土地、植民地をもっていない国は真似できないものでした。
アメリカ、イギリス、フランスのような「持てる国」とは対照的に、日本やドイツ、イタリアのよう、植民地を「持たざる」国は、資源を手に入れるために、他国への侵略を正当化していくのです。
日本は中国の満州にて「満州事変」を起こし、強引に中国東北部を日本の支配下に置きました。
ドイツにおいても、ヒトラーを筆頭に軍国主義の考え方が浸透し、隣国のオーストリアなどをドイツに編入するなど、着実にその領土を広めていきます。
イタリアでは、ムッソリーニがファシスト体制を作り上げ、軍国主義の国になりました。
こうして、自国を守るために、国全体の考え方が軍国主義に変わり、軍事力を背景に植民地化を推進、経済圏を強化する動きになっていきました。
こうした動きがのちに、イギリス、フランスとの対立を生みます。
イギリス、フランスがドイツに宣戦布告をし、「第二次世界大戦」が始まりました。
ブラックサーズデーによって、国ごとの経済多性の違いが、その後の国の方向性を左右するということが示されました。
終いには、経済恐慌が戦争を起こすという事態にまで陥ってしまいます。
ブラックサーズデーが起こった時代は、国際協調で経済恐慌を抑えることができませんでした。
これを教訓に、第二次世界大戦後には、国際通貨基金(IMF)や世界貿易機関(WTO)などが設立され、国際経済の協力関係が整備されていきます。
ただ、いくら国際経済の協力関係がつくられたとはいえ、どの国もやはり自国の経済が一番大事ですので、時には貿易の対立が起こることもありました。
現在の日本とアメリカの貿易摩擦がその主たる例です。
日本の農畜産物に対する関税の高さにアメリカがしびれを切らして、貿易自由化を要求してきたのです。
当時のアメリカは、貿易赤字であったということもあり、日本に対する姿勢は厳しいものでした。
現在、貿易の関税をめぐって、アメリカと中国が厳しい対立状態にあります。
やはり、いつの時代になっても国同士の経済対立は尽きないものです。
(目次に戻る)
ブラックサーズデーのような株価大暴落から学べること
ブラックサーズデーのような株価大暴落が発生した時の学びとして、以下が挙げられます。
- 暴落の前には、異常なほどの楽観ムードがある
- 異常な過熱感があれば、すぐ相場から逃げて、休む
- 一度暴落すると、回復するまで長い時間がかかる
暴落前は、どの株を買っても利益が出る、儲かるといった相場でした。
ダウ平均は、5年6倍になるなど、相場が過熱していきました。
そして、靴磨きの少年までもが、株式投資に興味を持つようになるほど、明らかなバブル状態でした。
暴落の前には、必ず相場が上がり続けています。
また、大暴落が発生したら、回復には長い時間を要します。
大暴落後、相場が底値をつけてから、元の株価水準に回復するまで、20年程度かかりました。
含み損を抱えていると、その状況下でなかなか身動きを取る事が難しくなります。
『過熱感を危険と捉え、即座に相場から降りて、しばらく取引を控える、このような人が相場で長く生き残る事ができる』ブラックサーズデーはそのような教訓をもたらしてくれたのではないでしょうか。
(目次に戻る)
まとめ
ブラックサーズデーによって、世界経済は未曾有の事態に突入しました。
ブラックサーズデーが発生する前は、経済成長という裏付けのないまま、相場が高騰を続けていました。
根拠のない過熱の後、株価は大暴落し、世界全体が大不況に陥りました。
ブラックサーズデー後、各国は事態に収拾に努めますが、それは他国を考えたものではなく、自国優先主義の経済政策でした。
その結果、二度目の世界大戦を引き起こすことになります。
現在も、国同士の経済対立は収まることがありません。
三度目の世界大戦のきっかけが起こらないよう、各国が協力して世界経済の安定に努めていくことが大切です。
今後も、世界経済の動向を注視していくのと同時に、根拠のない相場過熱には細心の注意を払いましょう。
そして、『過熱している』と感じたら、相場から逃げて、取引を休みましょう。
以上、ブラックサーズデー(ウォール街大暴落・暗黒の木曜日)とは?株価暴落の原因を解説!…でした。